東芝プラントシステム株式会社は
に 創立100周年を迎えましたScroll創立100周年記念ロゴについて
ご挨拶
社会・産業の安心と安全を支えて100年
当社は、関東大震災で被害を受けた工場や発電所、変電所などを復旧するため、創業者である壺河卓爾(つぼかわたくじ)氏が1923年(大正12年)10月に「三興電気事務所」を開設してから100年を迎えました。今日までの長きにわたり当社を支えてくださった先人の諸先輩方と皆さまに、心より感謝申しあげます。
これまでの100年間にはさまざまな社会状況の変化がありましたが、社会インフラを担う総合エンジニアリング企業として「社会・産業を支える基盤をつくり、安心と安全を提供する」ため、確かな技術力を基に社会・産業の発展に貢献してまいりました。
そして、次の100年、さらにその先の未来に向かって私たちは、東芝グループの経営理念である「人と、地球の、明日のために。」を基本として、すべての事業活動において生命、安全、法令遵守を最優先に、社会から信頼される企業であり続けるよう取り組んでいきたいと思います。
東芝プラントシステム株式会社 取締役社長
100年の歩み
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関東大震災からの復興
(株)芝浦製作所(現(株)東芝、以降文中では東芝と表記)の技術者であった壺河卓爾氏は、全国各地で検査・保守業務を行うなかで、メーカーと直結した工事会社が必要であると考え、さらには関東大震災で工場や発電所、変電所などで被災した機械設備の惨状を見て、1923年(大正12年)10月、東京市牛込区(現:東京都新宿区)南町の自宅に電気工事業の三興電気事務所を開設しました。
また同年、こちらも東芝の技術者であった野口徳衛氏が、当社の祖となるもう一つの会社、野口祐靖電気工業所を京橋区大根河岸に開設しました。 -
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電気の普及や工業の電化、進展とともに
三興電気事務所は1938年(昭和13年)10月に三興電気(株)へ、野口祐靖電気工業所は1939年(昭和14年)に電力工業(株)、1941年(昭和16年)に新興電力工業(株)となり、東芝の資本参加なども受けて、発電所設備をはじめ各種機器の据付工事や工事設計、監督などを請け負い、重工業の進展や軍需の増大などを背景に、東芝にとって必要不可欠な存在となっていきます。
第二次世界大戦(1939年/昭和14年)、太平洋戦争(1941年/昭和16年)の開戦などに伴う膨大な官民需要で三興電気(株)、新興電力工業(株)とも繁忙を極めましたが、終戦(1945年/昭和20年)直後は経済の混乱などによる受注の激減や、米国の占領政策などの影響を受け、苦難の時期を過ごしました。 -
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戦後の復興と経済成長による旺盛な設備投資と電源開発
終戦後の復興とともに産業界で設備投資や電源開発などで活況が戻り始め、新興電力工業(株)は1950年(昭和25年)に社名を芝浦工事(株)に変更し、従来からの重電機分野に加えて電設部門を新設し、新しい自由競争時代に備えました。「神武景気」、「岩戸景気」に後押しされ、旺盛な設備投資が推進されるなか、1958年(昭和33年)に社名を東芝工事(株)に変更し、大容量火力発電所の建設や大型一貫製鉄所の電気設備工事などを多く受注するとともに、テレビ局などの通信関連工事も手がけるようになります。
三興電気(株)も、1959年(昭和34年)に東芝電設(株)に社名変更し、火力、水力発電設備工事、変電、送配電設備工事、産業機械据付工事、通信・計測電気工事など、当時の電気設備工事の大半の分野に携わり、国内だけでなく、インドや南米などの水力発電設備事業、東芝以外の東京瓦斯(株)や国鉄などの業務も受注するようになり、さらなる発展への基盤を固めました。
また1959年(昭和34年)、当時の日本では珍しい「技術を売る」会社として東芝エンジニアリング(株)が設立。新分野であるコンサルティング事業が拡大し、発電所の発電設備据付工事監督やインド国鉄変電所、道路公団、工場向けの電気設備設計・監理などのエンジニアリング業務を受注するなど急成長していきます。 -
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発電、変電、動力などの設計・施工、保全を担うプラント会社へ
東京オリンピック(1964年/昭和39年)に沸き、GNP成長率が約15%という著しい経済成長のなか、1966年(昭和41年)、東芝電設(株)と東芝工事(株)の対等合併を行い、発電、変電設備、動力、電気、通信設備などの設計・施工、保全を主な事業とする東芝電気工事(株)として新たなスタートを切りました。鉄鋼、紙・パルプなどの重機械分野へ本格参入するとともに、電力業界の旺盛な需要を背景とした水力から火力へのシフトに対応し、数多くの大型発電プラントを受注するなど、業界内での地位を確立していきます。また、原子力時代の幕開けを迎え、原子力分野の事業体制も整えました。
しかし、高度経済成長期・いざなぎ景気ともいわれる1960年代から一転、1973年(昭和48年)の第1次石油危機によって世界経済は混乱し、国内でも物価の高騰やインフレの加速など、日本経済は深刻な不況に陥りました。 事業環境も大きな影響を受け、電源の多様化に伴う電力プラントの受注や原子力発電所や研究開発設備の建設などにも参画するとともに、鉄鋼やセメントプラント設備などに加え、航空輸送の増大に伴う空港設備や航空監視設備などの事業範囲拡大を図りました。 東芝エンジニアリング(株)は、「技術で生きる会社」として技術力を強化し、同時期、産業界で拡大していた工業用電算機、ミニコンピューターの急増に伴い、ソフトウエア開発や機器の保守、製鉄所の制御システムや銀行、省庁のオンラインシステムなど広範なシステム開発などの業務が増大。また、水力発電所の集中制御、電算機制御などへの対応や、火力発電プラントのエンジニアリング業務、一般産業分野のビルや上下水道などで実績を積み重ねていくとともに、東芝と連携し、海外製紙プラントの現地据付指導や試験調整、石油プラントの工事設計などの海外事業も積極的に展開していきました。 -
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次代への飛躍を目指し東京証券取引所へ上場
石油危機による混乱を経た日本の産業構造は大きく変貌を遂げ、それまでの鉄鋼や重化学工業に代わってエレクトロニクスが急速に進歩し、自動車、産業機械、電機などのメカトロニクス分野が急成長しました。東芝電気工事(株)は、火力・水力発電や鉄鋼プラントの需要が減速する一方で、原子力発電所建設に対応し、企業イメージの向上と次代への飛躍を目指して、1978年(昭和53年)、東芝プラント建設(株)へ社名を変更し、翌年の1979年(昭和54年)に東京証券取引所市場第2部へ上場、1983年(昭和58年)には市場第1部に指定替えとなり、名実ともに一流企業の仲間入りを果たしました。国内外で産業プラント、空港施設、地方公共団体の上下水道整備事業や空港照明工事などでも多くの実績を築くとともに、アジア地域を中心に海外事業展開も加速していきました。
東芝エンジニアリング(株)は、「コンピューターシステム」、「システムサービス」、「プラントシステム」を3本柱として事業を展開、情報化の潮流に乗り、高い技術力を背景に順調に事業を拡大し、巨大エンジニアリング企業に発展しました。2001年(平成13年)、プラント系部門とIT系部門を会社分割して、東芝エンジニアリング(株)はプラント系事業を継承し、IT系事業は東芝ITソリューション(株)(現:東芝デジタルソリューションズ(株))に引き継がれました。 -
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トータルソリューションを提供するエンジニアリング・コンストラクターへ
2004年(平成16年)、東芝プラント建設(株)と東芝エンジニアリング(株)が合併して東芝プラントシステム(株)が誕生しました。合併により「トータルソリューションを提供するエンジニアリング・コンストラクター」事業を展開することで、エンジニアリングから建設、現地調整、試験・試運転のすべてに対応できる企業として新たな挑戦が始まりました。
失われた30年ともいわれる長期経済低迷期のなか、東芝プラントシステム(株)はイノベーション活動やフルスコープEPC案件への対応など、市場環境やニーズの変化にあわせて事業内容や体制を変えながら、「利益ある持続的成長を続けるエクセレントカンパニー」実現を目指して成長を続けてきました。 2011年(平成23年)に東日本大震災が発生しましたが、当社は発電設備の復旧や緊急電源の確保、鉄道、空港や上下水道、工場設備の復旧などの震災復旧工事に尽力し、社会・産業のインフラ基盤を支える企業として社会に貢献するとともに、太陽光、水力、バイオマスなどの再生可能エネルギー発電への取り組みを強化するなど、事業環境の変化にも適切に対応してきました。 2019年(令和元年)には、(株)東芝による株式公開買付(TOB)が成立し、2020年(令和2年)に東京証券取引所1部上場を廃止、(株)東芝の完全子会社となりました。東芝プラントシステム(株)は、これからも社会・産業の基盤を支え、社会に安心と安全を提供し、さらにその先の未来に向かって進んでいきます。